「命輝かせて生きる」って…どういうことだろう。

私は一体、「リストを一つずつ消して、無事に1日を終える」ために毎日生きているのだろうか。いや、違うはず。違うはずだけど、どうしても、「◯時には子供のお迎えだから、それまでに買い物をして…今日はあのスーパーとドラッグストア、両方行けるかな」「◯時に子供の習い事だから、それまでに夕飯の用意はしておかなくちゃ」など、日々時間に追われている感じが否めない。週ごとにみても、「◯曜日には幼稚園の行事があるから、◯曜日にあのお店であれを買わないとダメだ。そして、図書館の返却期限が◯曜日だったから、ああ、あのお店に行くついでに寄れるかな…」などと、予定をパズルのように組み合わせ、なんとか全ての用事を済ませられるようにと、頭の中で常にグルグル回している。

ご飯を食べながらも、食べてることを忘れてボーッとする娘に「早く食べて!」と、毎日何度言うことか。
娘の宿題が終わらないと一緒にテレビを見られない弟が、「早く宿題してテレビ見ようよ!」と催促するが、娘は「はいは〜い」と言って取り掛かるものの、すぐに息子に反応したりして遊び始め、一体いつになったらテレビが見られるのか。早くお風呂に入って欲しいのに。そのうち息子がぐずりだすと、私は娘に「もう!早く宿題しちゃったら?」と言う羽目になる。
いつもいつも、「早く!早く!」と言っている気がする。

そんな私の小言にすっかり慣れっこな娘は「は〜い」と言うだけで、一向に物事は進まない。だんだんイライラが募ってきて、爆発しそうになる瞬間、ふと、「だけど、そんなに急いで、一日の用事を無事に済ませてちゃんと寝られたところで、それがなんだっていうのだろう」という思いが頭をよぎる。「1日1日を難なくこなしていくこと」、それが「生きる」ということなのだろうか。

確かに、快適な状態に肉体を保って、不自由なく日々を過ごすこと、それも大切だろう。そのためにみんな頑張って仕事もするし、健康に気も使うのだ。だけど、「肉体を快適な状態に保って日々をそつなくこなすこと」が、「命を輝かせて生きる」ことなんだろうか。

娘に対するイライラを爆発させる前に、こんな考えに意識が向き、爆発せずに済んだ。ひょっとして娘は、私に「本当に命輝かせて生きる」ということを改めて気づかせるためにダラダラしているのだろうか。もちろん、意識的ではないとは思うけれど。
「ダラダラしてずううっと長い間宿題してるより、サッとやっちゃって遊んだ方が楽しいんじゃない?」
と言う私に、
「え?ずううっと宿題してる感じじゃないよ。ずうううっと遊んでる感じだよ」
と答える娘。
そうなんだ…。彼女にとっては、ずっと遊んでる感じなのか。ずっと楽しんでるんだ。だとしたら、さっさと宿題を済ませることに、そんなに意味はないのかもしれない。

「命を輝かせて生きる」って、どういうことだろう。私は一体、どんな風に生きていきたいのだろう。43歳にもなって(というか、もうすぐ44歳になるが)、未だにこんなことを考えている私は…。あ、ストップ。他人と比較しても意味がない。

こういうことをずうっと考えながら生きてきた気もするけれど、ここんところ、特にそういうことに意識が向く。そろそろ本当に勇気を出して、命輝かせて生き始める時なのかもしれない。というか、そう願う、今度こそ。というか、「そうしよう」と決意するのは、私か。私しかいないものね。


…というわけで、というわけでもないのだけど、Kindleで本を出してみました。

「現実」とは?

KindleUnlimitedに入っていれば無料で読めるはずなので、興味のある方は是非。現実ってなんだろう…ということを考えるショートストーリーを3つおさめました。特に3話目の「手紙」を読んでほしいです。